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K's diary, thought, and so on.

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身軽なままで

10日間の東京、大阪では色々な人に出逢った。
マザーハウスの山口さん、山崎さん、大庭さんとの出逢いは、
今も心の奥に火をつけてくれる大事なものとなった。

友人達はみな、それぞれの道へ歩みだしている。
彼ら、彼女らの姿に、言葉に、本当に元気をもらう。

大阪では今井紀明と過ごすことが多かったが、
彼との出逢いはこの人生の中でも大きなものだった。

ザンビアという、日本から遥かに離れた場所でめぐり合った意味を想う。

本質的に同じものを抱えていて、その道に進むために全力で、
前に進むことをけっして諦めない。

過ごした時間も、交わした言葉もまだまだ少ないかもしれないが、
どこかでずっと繋がっていられる可能性を信じれる不思議なやつ。

根無し草である僕と違い、きちんとしたベースを作って根を張れるやつだから、
そのぶん自分はどこまでも飛んでいって構わないなと、思わせてくれる。

自分の分身がひとり、そこにいるのだと、勝手に思っているよ。



さて、進むべき方向性は確かな色と形を持って目の前にある。
進んでいく手段はひとつじゃないし、焦って歩を進める必要もない。

適切な時期に、適切な方法で、自分を誤魔化すことなく進めたらそれでAll right.

本当に不思議なものだな。
自分がこういう方向に進むだなんて、思ってもいなかった。

音楽や芸術のことだけを考えて生きる、究極に我儘な人間になるつもりだったのに。
結局、芸術を考えるということが、世界と自分を考えることとEqualだったのだね。

必要なのは、前へ進む強い意志を持ち続けるということ。
倒れても、立ち上がり、その足を前に進めていくということ。

そう在れば、人生は満たされる。
自己の存在と宇宙との関連性において、満たされる。

10年前の自分とは明らかに違う。
5年前、3年前、まだまだ違う人間のようだ。

いや、1ヵ月前と比べても、こんなにも違う。

人はどんどん色々なものを吸収し、複雑になり、
身に纏う物も増えて、そうやって強く、成長していくのだと思っていた。

違うんだね。

色々なものを脱ぎ捨てていくことで、本当の自分が見えてくる。
体が軽くなり、透き通った心と共に、どこへでも飛んでいけるようになる。


傷つけられることから守るために纏った鎧は、君の温もりを遠ざける。
身軽であれば、君の温もりもその息吹も、こんなに近い。

死は終りではなく、意味なのだ。

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  1. 2010/03/23(火) 00:10:16|
  2. 人生論
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名づけによる世界の成り立ち

内部世界と事象との狭間にあるものが感覚器官だと言える。

それは単純に五感を通して得られるものではなく、観念のレベルでも同じことだ。

第三者としての完全な客体(ありえないもの)を神の視点として据え置いてみると、
僕の見る世界、あなたの見る世界、それは共に神の視点からはズレている。

目の前のものを認識するということは、"名づけ"を行う行為だ。
それには、言葉というツールを使って表層の意識に昇らせる必要はない。

言葉は曖昧なザルにすぎないもので、
物を語るということは神の視点にある世界を利己的に切り取る作業だ。


"好き"という感情。
それはもともとあなたの中に存在したものではない。
外の世界と触れることでえた情報(=振動)をカテゴライズし、
認識できる言葉に置き換えたものだ。
(起因は絶対的にあなたにある)

目の前のコップも、愛も、思想も、あなたがいなければ存在しないものだ。

それは唯脳論的な"全ては想像の産物でありえる"ということではなく、
(マトリックスの世界、もちろん、これも否定出来ない)
全ての人は、神の視点から切り取った固有の世界を自ら形成し、そこに生きているということだ。

あなたのコップは、あなたのものだ。
これは既得権や所有の観念の話ではない。

あなたが認識することで、あなたの世界に招きいれたものだ。

あなたの愛は、あなたのものだ。


この論点でいえば、世界はあなた自身である、と言える。

しかしそれは決して、全ての人が同じ世界を共有しているという前提ではないから、
あなたに"他の世界"に直接触れる権利はないし、その術もない。

(世界構成を組み立てる手段としての芸術、哲学、宗教、密教的儀式、シャーマニズム、
禅的行為、洗脳や心的外傷を与える手段などで間接的に他人の世界を組み立てなおすことは可能)

芸術家は、その世界が彼自身のものであることを知っている。

芸術作品というものはその人の固有の言語だ。
その人の生き方そのものも、その人の世界を伝える、言葉であり、振動だ。

矛盾するようだが、個々の世界は切り離されて存在する別個のものではない。

全ては、大きな流れの一部であり、お互いに振動を伝える膜のようなものだ。


全てが、全てに依って、成り立っている。
ここに、倫理の生まれる土壌がある。

なぜ、人を傷つけることがいけないことなのか。
なぜ人を殺してはいけないのか。

関係性によって成り立つ世界を認識しなければ、
愛は生まれない。

仏陀の色即是空は存在の否定ではなく、
キリストの愛は仲間意識という小さな囲いではない。


...と思う。

  1. 2010/03/21(日) 22:03:27|
  2. 認知、哲学
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写真-大阪の日々

やっとカメラを構えることにも慣れてきた。
やっぱり人を撮っているほうが楽しい。
その人の、奥にあるものを、その魅力を写したくなる。

伝えたいことを表現するツールとして。
根っこの部分は音楽も文章も同じ。

難しいなあ...。

表現の方法にも色々な違いがあることを知った。
勉強を続けよう。

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  1. 2010/03/21(日) 14:59:36|
  2. Photo
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大阪の日々-記録

関西での日々。
インプットが多すぎてアウトプットする時間が少ない。
十分に文章にまとめる時間はないが、写真と共にその様子を残しておく。

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しつこく「マザーハウス」を訪れる。
夢を実現させたこの空間にいると、色々と考えさせられることがある。
自分自身に対する問いを絶やすことなく、足を前に進めていかなければ。


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マザーハウス副社長の山崎さん。
山口さんを支え、共に前に進んでいく。
いきなり訪れたにも関わらず、30分近く色々とお話をしてくださった。
小さな集団から、多くの人数を抱えた組織に成長していく過程では
トップダウン式のシステムが末端まで細かく指示を与えることは難しくなっていく。
そんな中で「マザーハウス」としての姿勢を保つものは「理念の共有」だと言う。
会社としての理念は法治国家の憲法にあたるようなもので、
個々人の解釈は違うことがあったとしても、それに対する真摯な姿勢というものが
会社という組織のぶれをうまくコントロールするそうだ。
トップダウンとボトムアップの相乗効果。
語る人(ストーリーテラー)の与える影響によって、
全ての人を創る人(ストーリーメイーカー)に。
今回マザーハウスを訪れて山口さん、山崎さんとお話出来たことは想像以上に大きい。
軸となるものをいただいた気がする。


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堀江にある写真スタジオ。
古びた建物の風情をそのままに、独特の色が浮かぶ幻想的な空間。
たまたま通りがかり、展示を見てきた。
空間や場所が創りだす世界の面白さに惹き込まれる。


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新しいスタイルの駄菓子屋。
昔懐かしいレトロな駄菓子を売りながら、奥では喫茶も楽しめる。
小さな立地の中に色とりどりのわくわくが詰まった空間。
内装の雰囲気がよく、おもわずレンズを向けてしまう。


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ザンビアで大変お世話になった、在ザンビア大使館のシェフと日本で再会。
先月から日本に一時帰国していたのだが、以前の大阪滞在ではニアミス。
今回、シェフのザンビア帰国寸前に大阪で会うことが出来て本当によかった。
おいしい海鮮料理を食べ、飲み、笑った。
すでにザンビア生活8年を超えたシェフ。
またザンビアに会いにいきます。


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本気の男たち。勇樹(右)と恭平(左)。
ふたりとも自分の夢、目標に向かって全力だ。
自分自身に嘘をついて生きることは、彼らに対しても全力でないことになる。
それだけは、いやだ。
絶対に足を前に進めてやるという、そういうやる気をくれるやつら。


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今井紀明の親友、パク・キホ。
前々からのりの話を聞かされ、、興味はあったところで初の対面。
梅田で昼から会い、意気投合の結果、日が変わるまで語り合った。
生きることに本気であり、自分に正直であり、意味というものを深く考える。
存在や認識に対する興味は、自分のそれと近いと感じたこともあり、楽しく語れた。
「目の前にコップがあるとはどういうことか」というようなことを
初対面からこんなにストレートに語れたのは初めてだ。
聖書からニーチェ、社会学から映画まで。
彼の広い視野と興味の深さに感銘を受けた。


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みさが「自分にとっての幸せとは」ということを本気で考えている。
それが唯一の答えでないこともよく感じていて、他の人はどういう価値観を持っているのか、
何を幸せと感じ、生きているのか、興味が尽きないようだ。
そこで、急遽梅田で画用紙とペンを買い、道行く人に
「あなたの幸福とは何ですか?」といいうことを聞いてまわった。
みさ、キホ、りさと共に雨の梅田を歩いた。


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彼は「自分の幸せは晴れた心」、と雨の路上で笑顔をくれた。
2時間ほどの時間をかけ、みさが色々な人の話を聞く。
老若男女問わず、その人自身の言葉を聞いていく。
それを必死に求めるみさの姿にも感銘を受けた。
自分の幸せとは、生きることの意味とは。
考え続けていくことが、足を前に進めていくことでもある。


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フットサルの試合で、カンボジアで地雷によって足を失った人の義足の寄付を行うというイベント、
「KLカップ」にでかけた。
USのNGO時代の同僚も偶然そこに居合わせた。
大学生であり、フォトジャーナリストでもある安田菜津紀さんの講演もあった。
安田さんと話をするのが一番の目的で行ったのだけれど、
みんなで作り上げるイベントの活気というものも身近に感じられてわくわくした。
安田さんは直後にすぐ東京に帰られたので直に話すことは出来なかったが、
とても輝くものを持った人だったので、また機会があればお話を伺いたい。


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「KLカップ」の最後の記念撮影。
飛び込みでクイズ大会にも参加したり、好き勝手動き回って写真を撮っていた。
世の中には本当に色々な人がいる。
自分も負けないように頑張らないとな。



まだまだ書きたいことは山ほどある。
少し落ち着いたらまた振り返ってみようと思う。
今日は神戸でまた多くの人との出逢いがある。

ずっと今井紀明の家にいる。
のりも毎日活動的で、毎日限界まで足を前に進めるやつ。
ふと何かを考えた時に共有出来る仲間がいて嬉しい。
切磋琢磨やね。
明日には大阪を離れます。

  1. 2010/03/19(金) 10:28:54|
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マザーハウスの山口絵理子さん

マザーハウスの山口絵理子さんとお会いしてきた。

山口さんは、大学在学中に国際機関のインターンとして働いたものの、
現地との距離を感じ単身バングラデシュへ飛び、
地元の人材と技術と共に、日本でとてもお洒落で高品質なカバンなどを販売している。
(詳しくはホームページを)

今回、山口さんが大阪店に新作の発表にやってきて、
そこで話す機会があるという情報を友人から教えてもらい、
予定よりも早めに大阪入り。

以下は山口さんの活動について紹介した番組、「情熱大陸」のもの。








温かみのある内装の店内に手作りのレザーの商品たち。

フェアトレード商品というと「貧困国を助ける」というような視点が入りがちだが、
マザーハウスの商品は本当にデザインも品質も、一流と呼べるもの。

アジア最貧国、バングラデシュという国の自立と発展に寄与し、
なおかつきちんと事業として成り立っている。

山口さんにとっての幸せとは何か、聞いてみた。


毎回増えていく笑顔...
事業を通して関わる人々、出逢った人々との間に育まれる絆が、幸せに繋がると、
そう言っていた。

そこには、人と人との交流を通して自分の居場所をみつけたという
山口さんの喜びがあった。



なぜ海外の貧困に、不平等に目が行くのか。
自国内にも、これだけ貧困も悲劇も溢れているじゃないか。

...いやになるほど聞いたセリフ。

自分自身が偽善の塊のような、嫌な粘液が喉につまったような感覚を覚える。


自分だから出来ること。
自分の居場所。

山口さんは輝いていた。

それは、山口さんが、山口さん自身で在るという、
素直な生き方をしているからだと思う。


さて、また希望を受け取った。

繋げていかなければね。

ありがとう山口絵理子さん。
また、会いにいきます。

チャンスをくれたえま、ありがとう☆


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↑山口さんと、マザーハウスのバッグ。本当に、輝いている人だ。

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↑商品たち。本当にデザインが素晴らしい。

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↑革製品の素晴らしさを知った。

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↑その後、えまとう○こと英語の勉強。今日は心斎橋をよく歩いた。

  1. 2010/03/13(土) 22:05:30|
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徒然写真

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↑世界のコインたち。通貨ごとに思い出がある。

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↑水の描き出す形。

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↑東京でNGOの同僚だったRyoとAyumiと語らう。

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↑Ayumiはベリーズで子どものいる家庭の生活向上プロジェクトで働いていた。

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↑Ryoはニカラグア、モザンビークでの仕事を終え、現在は経理に携わっている。

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↑弟とウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」について談義。だんだん語れるようになってきた。

  1. 2010/03/12(金) 23:39:33|
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関係性の糸と存在の意味

関係性こそが、この命を肯定する。

あなたと僕との関係性が、世界を美しいものにしてくれる。

それは、あなたの存在という切り離されたものでもなければ、
僕がここに立っているという独立した事象のことじゃない。

あなたがいて、僕がいる。

そこに雅に流れる関係性の糸が、暖かく、優しく、光を放っているのだ。

ある瞬間に、僕はもうこの世界にいないかもしれない。
また、あなたの命がその灯火を絶やす時も来るだろう。

しかし、縁起は消えることなく、ただ流れ行く。

ウイリアム・S・バロウズは言う。
「役割というものを肯定しなければ、人生に意味など見出せない」

その揺らめく繋がりの糸こそが、命に役割を与えてくれる。
それは、全ては、全てに依って成り立っているということではないか。


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

...有名な方丈記の一節。
命のその儚さと、そこに意味を希求する切なさを見事に表現している。

夕刻を待たずして消えゆく朝露の存在が世界に投げかけるものとは何か。
消えればそれまで、その世界は朝露の生じる前のものと同じものなのか。

そこに意味を見出せるのが、人間の可能性ではないのか。


かけがえの無い命を、瞬間を、生きていこう。

  1. 2010/03/09(火) 00:28:20|
  2. 人生論
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認識と変数、矛盾。歩みを止めないこと。

英語の構文を要素に分解して観察している。

SVOなどの要素の中で、Oの役割の中に準動詞を置くことにより、
その内部構造はSVOC→(OC→(OC....))という構文が可能になる。

これはまるで変数を使用した数式のようだ。

Aという変数に"B+C"という式を代入する。
A+Aのその内部構造は(B+C)+(B+C)となる。

そこでBに"D+E"を代入し、Cに"F+G"を代入する。
その時のA+Bの内部構造は...(D+E)+(F+G)+(D+E)になる。

この概念はプログラム言語でも同じで、
代入する変数の値をある特定の状態を示す値と対応させることで、
特定のアルゴリズムを作ることが出来る。

プログラム言語の記号で数式と相容れないのは、変数を代入する時の=の記号だ。
プログラム言語ではA=A+1という式が成り立つが、これは本来は
A→A+1と書くべきで、Aの状態の変化を示すコマンドだ。
(これに対し条件説のなかでの=は従来どおりの=である)

この、状態の変化を示す記号は言語活動の中の時間軸を表す記号に相当する。

言語学者は数学を言語学のための道具と呼び、
数学者は言語学は数学の一形態だという。

思考というものはある特定のアルゴリズムとブラックボックスの計算の累積とも言える。

そのブラックボックスの未知数ゆえに、心理学や認知科学は具体的な方程式を持たないが、
その大部分は変数によって流れを規定されているのではないだろうか。

それはバイアス(偏見や培ってきた価値観)となり、
ブラックボックスの中で、"ある答え"を導くための変数となる。

このバイアスというものがやっかいで、
大抵は無意識下で処理され、その変数の絶対性を疑うことは、まずない。

AというものにはB+Cという変数を代入するのです、という"価値観"は、
それが絶対の真理ではなく、単なる思い込みに過ぎないということを忘れさせる。

この変数の内部構造は、"決して"自分で作り上げたものではなく、
ほとんどの場合知らない間に周囲の環境によって作り上げたものである。

主体がその対象について無関心であればあるほど、
簡単にその内部構造は鵜呑みにされるし、
反対に"ある特定の結果"を切望している主体が、
その答えを導く変数の形態を見つけたときにも、それは簡単に適応される。

9.11以降、テロという変数には"イスラム"や"原理主義"という概念が代入されている。

自分という変数には"日本人"であったり"キリスト教徒"であったり、
"ボルドー産の赤ワインはおいしい"というような価値観が代入されていたりする。

自分の思考というものを辿ろうと思ったら、
その思考の源泉となる変数そのもについて考えていかなければ、
どこまでいってもその変数以前の思考にはたどり着けない。

こう考えていくと、本当に自分の意思などというものが存在するのかどうか、
とても曖昧になってくるが、その質問に答えはない。


言えるのは「絶対正しい」ものなどないということだ。

正しいという概念、式の解は、変数によっていくらでも変わりえるのだ。

(答えを導いた変数が正しいものである確証はない)
(ここで「正しい答えなどない」ということを断言するのもまた矛盾か)


さて、つまらないやり方でつらつら書いたが、結局言いたいのはこういうこと。


人は自分を信じて歩いていくしかない。
自分が何を信じていて、何を正しいと思っているのか、きっちりと知ること。
そしてその価値観は絶対のものではなく、他の人は他の価値観を持っていることを知ること。
考えるのを止めないこと。
最後まで行動すること。
大切なものを大切にすること。

  1. 2010/03/07(日) 19:01:58|
  2. 認知、哲学
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生きるために

この3年ほどの海外での経験を経て、自分の中の色々なものが変化した。

この目を通して映る世界の色が完全に変わったのだ。
以前魅力的に見えていたものは色褪せてきたし、見たこともないものが光を放っている。

ただ、どうしようもなく苦しい想いも背負い続けることになった。

人間という存在の残虐さ、愚かさ、そういうものを考えると
自分が人間であることがバカらしくなってくるし、世界が存在していることが無意味に思えてくる。

1年ほど前かな、本当に色々な部分で壁に当たっていた。

自分がこうしてのうのうと生きている間にも、
幸福を望む多くの人には重すぎる悲劇が襲い掛かり、
ただなんとなく水面を漂っているような自分は安穏とした日々を享受している。

その事実が、どうしようもなく腹立たしく、虚しい。

なんでこんな苦しい思いをしなければいけないのだろう、
いっそのこと背を向けて、目を瞑ってしまえば楽に生きれるのではないか。
平和で、安穏とした日々のなかで、それなりに楽しく生きていけるのではないか。

ただ、与えられる情報と価値観に自分を埋没させていけば、
何も悩むことなく生きれるのではないか。

いてもたってもいられない衝動のせいで、日本の社会に留まることも出来ない。
心底、自分が情けなくて、ゴミのようで、命を持っていることに罪悪感すら感じていた。

自分なりに(少しは)世界を見てみて、(ほんのちょっぴり)知識も得てみて、
その圧倒的な不平等や利己心のぶつかり合い、搾取にげんなりしていた。

世界を変えることなんか出来やしない、大きな流れには逆らえない。
そんな風な諦めの心もあったかもしれない。

国という同じ囲いの中ですらも、一方には想像を絶する金持ち、他方には極度の貧困。
先進国や富裕層の豊かな暮らしを支えるための多くの犠牲。

世界は狂っている、さもなくば、オレの頭がおかしいんだ。
そしてたぶん、頭がおかしいのはオレのほうだ。

そう思った。

中米で出逢ったある人は、なぜ自分の家族が紛争で殺されたかわからないと言った。

なんでだろう?
オレにはわからない。

ナイロビのバス停にいた兄ちゃんは、部族間の争いなど無いといっていたが、
08の選挙時にはあの騒ぎだ。
昨日までの友達が、部族が違うという理由だけで殺し合った。
あの彼は無事だろうか?

世界のどこに目を向けても、日本の中でさえも、
くそったれな現実が蔓延っている。


淀みが、溜まっていった。


そんな暗闇に一条の光が差したのは、多くの人との出逢いのおかげだ。

本当に素晴らしいと思える人々との、出逢い。

全ての人は、国や性別や年齢、宗教などを超えて、目の前に存在する
ひとりの命を持った人間なのだという実感、そういうものに気づいた。

色々とつまらないものに縛られていた自分にも、気づくことができた。

心の靄が晴れた。

幸せというものは人それぞれだ。
オレが幸せだと感じることでも、他の人が幸せと感じるかどうかなんてわからない。

オレは、単純に、世界の色々な不条理がめちゃくちゃ嫌で、
"たまたま"海外の、特に紛争被害地や圧倒的貧困に苦しむ地域の人々の現状がたまらなく不快だ。

別に人に奉仕したいとか、世の中を良くしたいということではないのだと思う。
なぜ自分がそれを不快に思うかを知りたいし、出来ることなら不快なものは改善したい。

そのために、自分の幸せのために、向かっているのだと気づいたときから、
苦しみは苦しみではなくなった。

そしてその自分の幸せのために、自分の愛する人々の幸せが絶対に必要だという確信、
それが自分の足を前に進めている。

人は自分の生まれる場所を選べない。
自分はたまたま日本に生まれただけで、彼はたまたま戦時中のエルサルバドルに生まれたのだ。

自分の愛する人も、もしかしたら極度の飢餓の最中に生まれ落ちたかもしれない。

ちょっと想像してみればわかる。
自分の最愛の人が、わけもわからぬままミサイルで粉微塵にされて肉片が飛び散ったとしよう。

たまらなく不快じゃないか?
(オレは赦しの心を持った聖人ではないので、復讐を考えてしまうことだろう)

同じ村の初恋の女の子が財政難のせいで売られて、
都市部で性奴隷としてこきつかわれたあげく、エイズによって死ぬ。

地獄以上に地獄じゃないか?

今現在、紛争により愛する人々を失う人、圧倒的に搾取されている人、
彼ら、彼女らは別にオレの最愛の人ではない。知り合いですらない。

...が、彼ら、彼女らはオレの最愛の人と成りえるのだ!

もうそれだけの想像的な根拠で、オレは不快だ。
これが不快であることを正面から認めてしまおう。

だから、世界の不条理やくそったれな事実を見つめたいし、行動したいんだ。

そこには論理の飛躍もあるし、実に利己的な動機だ。

でも、それでいいと、思えるようになってきた。

物理的に危険な場所で、人生を回顧する間もなく死んでしまうかもしれない。
奥地で、よくわからない病に倒れ、誰の目にも触れずに死んでいくかもしれない。

でも、それでいいと、思えるようになってきた。

生きるということは、物理的に生きながらえることではなく、
その命に与えられた欲求に従うことによって得られるものだと、思う。
(完全にオレの偏見による価値観だが...)

理解もされず、孤独に死んでいくのかもしれないとは、もう思わない。
愛する人たちがいるからだ。
(もちろん一方通行の可能性はありますが...w)

その人たちの存在のおかげで、人間を信じれるし、
彼ら、彼女らが不条理な世界に押しつぶされることがないようにと、心から願う。
(単純に安穏な日々があればいいとは、言わない。傷つくことは人生の一部だから)


さて、未熟な自分が、こんな戯言ばかり並べていてもしょうがない。

自分を磨き、足を前に進めなければ。

風は、そういう方向に吹いている。
そしてオレは根無し草。

魂の赴くままに。

  1. 2010/03/03(水) 21:13:01|
  2. 人生論
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英単語最終宣戦布告

素晴らしい辞書を見つけた!!

小学館とケンブリッジが共同して作った「小学館-ケンブリッジ英英和辞典」だ。

そもそも辞書を探していたのは、手元の単語帳をほぼ制覇したことによる。

「TOEFL英単語3800」は日本で出ている単語集ではけっこうレベルが上のもので、
これを制覇すると単語集の最高峰、「PASS単-英検一級」しかないらしい。

そこで書店で「PASS単-英検一級」を手にとってみたが、8割がた認識出来る。
(自由に使いこなせるという意味では決してないが)

これ以上の語彙を身につけたければどうすればいいのだろう?
インターネットを物色してみると、多くの方が「多読」を薦めている。

ようは沢山本を読むことによって、未知の単語との遭遇率もあがり
語彙は自然に増えていく...とのことのようだ。

しかしこれでは興味のない分野の語彙は全く素通りしてしまうし、
圧倒的に時間がかかるではないか。

すでにBBCやAl jazeeraのニュースから、未知の単語を集めてファイルしている。
それでも増えていく語彙は少ないし、その範囲も圧倒的に狭い。
(逆を言うと、国際ニュース系や国連文書などに特化した単語力は身についた)

オレは英語を"日本語と同等"なレベルまで高めたい欲求があるので、
この方法は自分にとって効率的とは言えない。
(普通に多読をしていて"conifer=針葉樹"と巡りあえる可能性は低いと思う)

なので、どうしても満遍なく多くの語彙を必要順に提示してくれる単語集が必要だった。

ところが、すでにそのようなレベルの単語集はないという。
(どこかにはあるのかもしれないが、発見できなかった)

おそらく今の自分の英単語レベルは10,000語そこそこだろう。
(「PASS単-英検一級」は15,000語レベルらしいが、本当だろうか?)

そこで、目をつけた小型辞書。
中型辞書だと収録語彙数が8万語を越えていて圧倒的に多すぎるのと同時に、
小さな文字や聖書のようなペラッペラの紙質では単語集に向かない。

書店に出てみて辞書を眺めてみると、
最近は色んな種類の辞書が出ているのがわかる。
語根、接尾辞から引く逆引き辞典なんかはおもしろそうだった。

収録語彙2万語前後の辞書もけっこうあるが、
多くは中学、高校生用で、突っ込んだ単語が載っていないことが多い。

理想とする辞書は、3万~4万語の収録語彙を持ち、
その単語の選別も素晴らしいもの、という贅沢なもの。

...と見ていると、あった!!

それが「小学館-ケンブリッジ英英和辞典」だった。

収録語彙の目安は"bronchitis=気管支炎"が載っているかどうかというものにした。
(ただ単に最近覚えたての英語であったのと、日本語では普通に知っているにも関わらず
小型の辞書では載っていないことも多い語だったことから)

収録語彙は3万5000。
うん、丁度いい。
ページ数1000ページくらい。
一日100ページで10日でいけるな。
これを何回も繰り返してある程度の語彙力を身につけよう。
(これは最低限の日本語訳も載っている英英辞典で日本語とのリンクの強化にもなる)

英単語の記憶に必要なのは「根気」とチョコレートとコーヒーだけだ。

一生使えるコミュニケーション、情報収集、発信のツールを身につけられると思えば、
この程度のことぐらい出来なくてどうする、と自分に言い聞かせる。

さあ、頑張ろう!

※追記
「TOEFL英単語3800」を丸暗記しただけで
BBCなどのニュースの理解度が大幅にあがった。
語彙増強の効果が直ぐに実感できて素直に嬉しい☆

  1. 2010/03/03(水) 16:02:55|
  2. 語学
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本当に大切なものは何なのか?

やっと最近自分の足元がクリアに見えてきた感じだな。

ザンビアのプロジェクト関係の仕事もひと段落し、
自分が次に進みたい方向も、目的地も、具体的に見えてきた。

「何のために生きているのか」ということが常に人生で大きな部分を占めているが、
そこに自分なりの生きがいというものも認めれるようになってきた。

人はとてつもなく大きな大河に浮かぶうたかたのようだ。
交じり合い、溶け合い、ぶつかり合い、消えていく。

自分を曇らせずに生きていくには「覚悟」が必要だ。
きちんと目を開いて、有形無形の様々なものを見つめていかなければいけない。

「知る」ことは可能性を広げることであるが、
それは圧倒的な魂の欲求に従う「覚悟」を伴うものだ。

本当に大切なものは何なのか?
自分は何にこの命を賭すことが出来るのか?

その自己実現のために自分に足りない部分とは何か?

自分の心の弱さを見つめ、澄んだ心を目指したい。

  1. 2010/03/02(火) 08:10:03|
  2. 人生論
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Call me

内にあるものを形にしきれないもどかしさというのは身を焦がれるような想いだな。
音楽作品の完成は50代を目標に歩いているから少しずつでいいのだけれど、
音楽にしろ絵にしろ、文章、写真、あらゆるものがその形を求めているのに具現化出来ない。

まずは目の前のことから一歩ずつ。
人生は完成に至るのが目的ではなく、進み続けることに意味があると信じて。



「Call me」

Just be yourself
Don't go so fast, find the beauty beside

Shining window
If you want it, close your eyes and recall

Over the years you've lost the way
Remember the feeling leading you there

Call me when you're missing....

  1. 2010/03/01(月) 18:52:48|
  2. 音楽
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